カーリングの藤澤五月がLS北見へ移籍した経緯がクール!選手のピンマイク装着の理由に納得!

今年、2018年に韓国平昌(ピョンチャン)で開催された冬季オリンピック。これまでの冬季オリンピックで1大会で日本が獲得したメダル数は、金4、銀5、銅4の計13個となり、これまでで最多だった長野オリンピックの10個を抜いて最多となりました。

13個のメダルの一つとして銅メダルを獲得したのが今や人気急上昇中のカーリング女子チームの「LS北見」です。男女合わせてカーリング史上初のメダル獲得という快挙となりました。その快挙の立役者の一人となったのがゲームで司令塔となるスキップを努めた、藤澤五月選手です。

メダル獲得後に帰国した際の空港や地元では大勢の人が集まり、大騒ぎでしたよね。出発時とは大違いの光景です。この藤澤五月選手は、元々は中部電力のカーリングチームに所属していましたが、あるきっかけで「LS北見」に移籍し、今回の快挙につながりました。

正にこの移籍が藤澤五月選手の運命を変えることとなりました。実は、その移籍の経緯がなかなかのクールさなんです。

カーリング女子のこの度の大活躍により、今後益々カーリング人気が高まるのは必至ですが、このカーリングでは、選手がピンマイクを装着して試合に臨みます。なかなか他のスポーツでは見られないスタイルですが何故ピンマイクを装着するようになったのでしょうか?

そこで今回は、藤澤五月選手がカーリングを始めた幼少時代からの実績とLS北見の移籍までの経緯を辿るとともに、選手がピンマイクを装着して試合をするようになった理由について迫ってみたいと思います。

スポンサーリンク

藤澤五月選手がカーリングを始めたのはいつ?

カーリングでは名実ともにトップクラスの実力を持ち、スキップという司令塔の役割を見事に果たす藤澤五月選手は、

引用元http://athletes-lifetime.com/

  • 生年月日:1991年5月24日生まれ
  • 血液型:O型
  • 3人兄妹の末っ子
  • 出身地:北海道常呂郡常呂町(現在の北見市美山町)
  • 愛称:さっちゃん
  • 所属:LS北見(ロコ・ソラーレ北見)

2018年の誕生日を迎えて27歳となります。

そんな藤澤五月選手がカーリングを始めたのは、彼女が5歳の時でした。当時中学校の教員をしていた彼女の父に連れられてカーリングリンクを訪れたことがカーリングを始めるきっかけとなります。

実は藤澤五月選手の父は、長野オリンピックの最終候補選手に選ばれるほどのカーリングの実力の持ち主だったようです。藤澤五月さんの兄と姉も既にカーリングを始めており、必然的なカーリングとの出会いとなりました。

カーリングを始めた5歳の時点で既に彼女は、大人と同じ重さ約20kgのストーンを操ることができたというから驚きです。同年代の子供と比べると身体は大きかったということらしいですが、それよりも負けん気がかなり強かったようです。

引用元http://ailbainpro.com/sports/post-4400

カーリングに限ったことではありませんが、スポーツの世界では、この負けん気の強さというのは強い選手になる上での必須となる性格的要素となります。負ける悔しさの感情が人一倍強い分だけ、強くなるための練習のモチベーションも人一倍高くなるということですね。

藤澤五月選手も強い選手になるための基本となる要件を子供のときから満たしていたということになりますね。強い選手になることは必然だったと言えます。

藤澤選手の運命を変える父によるスキップへの抜擢

カーリングを始めたときから既に頭角を現していた藤澤五月選手は、その後も着実に実力を上げていきます。

藤澤五月選手が中学1年生になった時、彼女のプレーが、感覚的なものではなく、論理的思考に基づいたプレースタイルを実践していると見抜いた彼女の父は、姉が努めていたスキップのポジションを藤澤五月選手に務めさせ試合の作戦を立てさせることにしたとのこと。

このスキップというポジションが藤澤五月選手に見事にはまり、5歳のときから培ったカーリングの実力と相まって、チームは勝利を積み重ねていくようになります。

五輪代表候補選手に選ばれる実力を持っていた父だからこそ、幼少の頃からずっと見守ってきた実娘のカーリングに対する本質を見抜けたんだと思います。

何事でもそうですが、一つのポジションあるいは役割で目が出ない場合、そのポジションや役割を変えることで、その人の実力が発揮されるってことはよくある話ですよね。藤澤五月選手の場合も父のナイスな判断で、大きく自身の運命が変わったと言えるでしょう。

2007年に、北海道北見北斗高校に進学した藤澤五月選手は、変わらずスキップの立場で、さらなる活躍を積み重ねていきます。その実績は:

  • 高校1年生、2年生で日本ジュニアカーリング選手権優勝
  • この優勝により世界ジュニアカーリング選手権出場
  • パシフィックジュニアカーリング選手権で日本ジュニア代表として2大会優勝

素晴らしい実績です。世界で活躍する要素を既に高校時代が持ち合わせていたことが容易に想像できます。正にカーリングの天才と言えますよね。カーリングをするために生まれてきたと言っても過言ではありません。

希望と挫折を味わった中部電力時代

2010年、高校を卒業した藤澤五月選手は、地元を離れ、長野県の中部電力に入社します。ここで、新たな希望のもと社会人としてのカーリングをスタートさせます。藤澤五月選手、実は中部電力カーリング部の創設メンバーの一人だったんです。

引用元http://athletes-lifetime.com/curling-chubudenryoku/ 右端:藤澤五月選手

元々、中部電力がカーリング部を創設した目的は、社員同士の親睦が目的だったようですが、そんな目的での創部環境に藤澤選手が満足するはずがありません(笑)。

案の定、この中部電力でも入社直後からスキップを努めて快進撃を開始します。

  • パシフィックカーリング選手権に日本代表として出場
  • 2011年から日本カーリング選手権大会を4連覇

日本カーリング選手権ではその当時主将を努めていた市川美余選手とともに4連覇を果たしています。学生時代から止まらない快進撃です。

ところが、2014年2月、ソチ冬季オリンピックの出場権をかけて、2013年9月に行われた日本代表決定戦で、2002年ソルトレイクシティ、2004年トリノと冬季オリンピック2大会に代表選手として出場実績のあった小笠原歩さん(藤澤選手と同郷出身)率いる北海道銀行フォルティウスに負けてしまいます。

カーリングを始めた当初から天性の才能を発揮し、根っからの負けん気の強さを武器に人並み外れた成長と実績を積み重ねた藤澤選手だっただけに、この時に味わった挫折感はこれまでのカーリング人生において最大級のものだったに違いありません。

実際に、本人も「このままカーリングを続けてていいんだろうか?」というコメントを残しています。カーリング選手としての進退にまで考えが及んだということからも本人のショックの強さが想像できます。

中部電力におけるカーリング部の創設メンバーとして希望に燃えていましたが、ソチオリンピック出場を逃すという挫折も同時に味わうこととなったわけです。そんな彼女の心境を裏付けるかのように、2015年3月をもって藤澤五月選手は中部電力を退社し、故郷の北見市へ戻ることとなります。

運命を変えるチームLS北見との出会い

ソチ五輪出場を逃して失意のどん底にあった藤澤五月選手でしたが、カーリングの女神は、まだ彼女を見放してはいなかったようです。

故郷に戻った藤澤五月選手は、地元である常呂町(トコロチョウ)でLS北見(ロコ・ソラーレ北見)というカーリングチームを設立していた本橋麻里さんと会食の機会を持ちます。本橋麻里さん自身、カーリング選手としては申し分のない実績を持つ先輩となります。

引用元https://prtimes.jp/ 中央:本橋麻里選選手 その右手:藤澤五月選手

同郷出身の本橋麻里さんに会うことでカーリングから去ることも頭によぎっていた藤澤五月選手は、自身の進む道を明確にしたかったのでしょう。つまり、心のどこかで本橋麻里さんに助けを求めていたのではないでしょうか。

その会席の場で本橋麻里さんは、藤澤五月選手に「さっちゃんも入らない? 私たちは、もう次に進んでいるよ」という言葉を投げかけます。その時の藤澤五月選手の心理状態を考えれば、正に「未来」をイメージさせる言葉ですよね。

この本橋麻里さんの言葉で、藤澤選手の移籍への心が決まり、LS北見で再びカーリングをプレーすることとなります。この移籍決断がまさしくその後にオリンピック出場、そして史上初のメダル獲得という人生最大のステージへいざなう運命の瞬間だったわけです。密かにこんな経緯があったんですね。

藤澤五月選手のおかれていたその当時の環境下で本橋麻里さんと出会うタイミング、そして藤澤五月選手がLS北見に入る心を定めたこの経緯はまさにクール!としか言いようがありません。

スポンサーリンク

ピンマイク装着スタイルはテレビ都合で生まれた!?

カーリングというスポーツをテレビで観戦したことのある方なら誰でも選手の話している声が余すことなく聞こえていることに多少の驚きを感じた方も少なくないのでは。

その理由は、プレーをしている選手一人一人がピンマイクを装着しているからなんです。ここまで選手が喋っている声や内容が事細かに聞こえるスポーツは珍しいですよね。集音マイクを使って選手の声をアトランダムに拾うということはあっても、余すことなく拾って公開するのはカーリング競技だけです。

では何故、カーリング競技では全ての選手がピンマイクを装着するのでしょうか?

先ずはカーリング競技の特徴として

  • 戦略を駆使した理詰めの試合展開で氷上のチェスと呼ばれる
  • 敵味方がぶつかり合うことなくただストーンをショットするシンプルなスタイル
  • カーリングの試合では野球のように観客が騒がしく応援するスタイルではない
  • カーリングの1試合の時間は平均2時間~2時間半と長時間に及ぶ

ということが言えます。

戦っている選手は戦略を考えに考え抜き、そして重さ20kgのストーンを繰り返しショットしていくという頭と身体を駆使した過酷なスポーツであるにもかかわらず、見える光景は他のスポーツのような動的イメージとは違って静的なイメージです。

また、自チームがショットしている間、対戦チームはただ静観している状態で、敵味方同士がぶつかり合うような激しい動きはありません。

更にそのゲームスタイルから試合を観戦している観客が賑やかに応援を繰り広げることもありません。そんな中で、試合時間は長時間に及ぶことから、会場にいるならまだしも、テレビで観戦しているとどうしても臨場感が伝わらず途中で飽きてしまう傾向が強いと考えられます。

そのことから試合中継を行なうメディア側がテレビで観戦する視聴者に配慮して選手の掛け声や選手同士の会話をつぶさに伝えれるようにとの思いからピンマイク装着を提案し、実現したのだと言います。つまり、ピンマイク装着の理由はテレビ視聴者目線にたったテレビ側のアイデアだったんですね。

そのおかげで休憩中の選手の会話にも注目が集まり、「もぐもぐタイム」なんて言葉が生まれるきっかけにもなったのではないでしょうか。このことがカーリング人気を更に押し上げる相乗効果を生んでいるのだと想像できます。ピンマイク装着スタイルはカーリング人気の重要な立役者となったのは間違いないですね。

ただ、選手からしてみれば、試合中に余計な内容の発言をしてしまうと、全てが全国ネットに流れてしまうという違う意味でのプレッシャーがかかっているのも事実ですが(笑)。

まとめ

  • 藤澤五月選手がカーリングを始めたのは5歳の時
  • 藤澤五月選手は幼少期から大人顔負けのカーリングセンスの持ち主だった
  • 藤澤五月選手は中学1年生からスキップを努めて数々の試合で高実績を作る
  • 藤澤五月選手の実績は、カーリングセンスと負けん気の強さによって作られた
  • 高校卒業後に就職した中部電力のカーリング部創設メンバーの一人が藤澤五月選手
  • 藤澤五月選手は中部電力時代に希望と挫折を味わった
  • 本橋麻里選手とのクールな出会いが藤澤五月選手のLS北見への移籍を決断させた
  • ピンマイク装着の理由はテレビ観戦者を飽きさせないための配慮だった
  • ピンマイク装着がカーリング人気を更に押し上げる要因となった

平昌オリンピックでの銅メダル獲得はカーリング、特に女子チームへの世間の注目度をとてつもなく上げる結果となりました。今後もメディアに取り上げられる頻度も高くなり、更に人気は高まると予想され、カーリング人口も増えていくことでしょう。

現在26歳の藤澤五月選手ですが4年後の北京オリンピックでは、年齢的にも30歳。まだまだ活躍が期待できます。後進のためにもチーム全員の磨きをかけて是非、次回は銀メダル以上を目指して頑張っていただきたいものです。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

error: Content is protected !!